Vol.179
2019年07月8


今年の4月あたりから、島道鉱泉Webサイトから繋がる人間関係は凄い!
気の良い素敵な人材ばかりがどんどん押し寄せている!
じぶんの自己主張を上手に出来て、それでいて鋭く、真面目で、ハッキリとした姿勢が素晴らしい!

わたしは真面目ではないが、ハッキリしていて自己主張をするので(笑)やはり似たような存在が繋がってくるのは嬉しいし頼もしい!

人材が揃ったので、あとは時期を待つだけ。
【いよいよ本格的なお祭りが始まるなぁ】と感じながら、綿密な準備を始め、その時が来るまで待機する。

わたしは、闘病生活が長いせいか、いつも投げやりで、それでいて諦めが悪い。
【人生なんてそんなもんさっ!】と思いきや【いやっ!まだまだ可能性はある!】の情けない狭間で生きている。

そういえば、幼少期から、いろいろな夢を諦めてきた。
肺疾患は重度なため運動は出来ないし、体力はないし、走ること、階段を上ること、酸素供給が増える動作をすると息苦しくなり動けなくなる。

小学校の頃、運動会でリレーの選手を願い出て、走り終えた途端に酸欠になり倒れて担架で運ばれたことがあった。
その時『わたしの身体は、かなり悪いんだなぁ』と思い知らされた。

将来的には、身体が動かなくなるなんて、その当時の主治医に脅されたものだ。
中学生になって地元に戻っても、脅しは続いた。『薬を飲んで様子見るしかないね』の主治医の言葉に【今の医学では無理だろうなぁ】と諦めよりも挫折感が溢れてきていたものだ。

その主治医は数年前に肺がんで他界している。わたしは、余命を宣告されてきたわりに元気で生きている。
どうせ短い命なら好きなことやらなきゃ損だ!と強く思っている。
病気になったのは仕方ないし、それを嘆いてみたところで治らない。
だったら、じぶんで治すしかない。と思い初めて早くも20年が過ぎた。

開き直ったのは1番目の旦那さまと離婚した後の出来事があった時。
旦那さまは離婚後2週間後に事故で他界した。飲酒運転をしていた彼に『さそんなことしてたら、死ぬよ!』と言い続けたが、彼は飲酒運転が原因で事故を起こし命を落としたのだ。

その時のわたしは神経が切れそうになるのを必死で堪えていた。ヤりきった感と絶望感が交差して、5月に入院してしまった。じぶんでも知らないうちに疲労が重なっていたのだと思う。

離婚の理由はたくさんあるが、そのうちのひとつは、年老いた母親をじぶんで面倒を見ること、病気のわたしに面倒をかけたくないこと、婿養子でわたしの姓を名乗りながら実家に帰れないこと、旦那さまは、旦那さまなりに、世間体を気にしていたのだ。

家での旦那さまは暴言を吐き、よく大きな声を出していた。たまにテーブルをひっくり返したり、物を壊したり暴れていた。
わたしは、そのまま気が済むまでやらせていた。やるだけやったら我に帰るし、バカらしくなると思う。思い詰めたり、落ち込んだりするのは人間だから仕方ないし当たり前だと思った。でも筋道の通らない八つ当たりは困るし、他の人がしたことを直接、本人に言わずに家に持ち帰り当たるのは止めて欲しかった。

結婚してから旦那さまは、まわりの知人、友人には、『丸くなったな!』『すぐ切れなくなったな!』と、口々に言われていた。
結婚してからは、仏さまのような顔つきになりネフローゼ症候群の病気も改善に向かっていたのだ。

でも馴れ合いで、愛情表現がひねくれていた彼の言葉や態度が、わたしの気持ちを苛立たせていたのは間違いない(笑)

他界してから21年の歳月が経つが、わたしは、まだ彼を忘れていない。
彼の純真無垢で下向きな態度や仕草は脳裏に焼き付いている。
だから、いつも辛いときや悲しくなるときは彼を思い出す。
機嫌が良いときやストレスが溜まっていないときは【お前なら大丈夫。どんなこともうまくやれるよ。】と言ってくれた彼は、もうこの世に居ない。あの屈託のない笑顔やおおらかでこだわりのない性格は、わたしには癒しだった。

今度は、わたしが彼のかわりに生きる。生き続け【大丈夫!あなたならうまくやれるよ!】とまわりに言い続ける。

だから、わたしはやたら話し合いをする。その日、その時、リアルタイムにお互いの気持ちを確認する。
じぶんを知ってもらい、人を知るために、、、

【なぜわたしは島道鉱泉の場所に生まれたか?】

わたしみたいな自己満足で生きて元気な病人と、病気を診てくれる医者が亡くなり、新しい病院に移り新しい主治医になる。

わたしは、いつもついている。わたしは、いつも恵まれている。わたしは、いつも流れに乗っている。わたしは、いつもまわりの存在に恵まれている。ありがたいことばかりだ。

わたしは、しつけが厳しい家庭に育ち、礼儀作法や挨拶などは、嫌なほど身に付いている。 病気を併発して地元の病院では手の施しようがなく生家から数時間離れた病院への入院を余儀なくされた。

6歳~12歳まで家族と離れて暮らす生活は、悲しくもあり、寂しくもあり、共同生活している病気をしている同世代の子供達と支え合い励まし合いながら1日1日を大切に過ごしたものだ。

残酷で悲惨で病院生活で、学んだことは【病気はじぶんで治せる】だった。身体的な病気は事故や先天性や外部からの何らかの刺激により受けるものもあるが、わたしの場合は目から感染したウィルスによって起こる目の病気が最初だった。
ただ、高熱が出て肺疾患ばかりを気にして治療していたので、病気は悪くなる一方だった。
血中酸素濃度や酸素、二酸化炭素の供給量が少なくても呼吸困難には慣れた。
また身体が、それに順応しているのだ。

島道鉱泉の次女に生まれたのに、なぜ島道鉱泉に帰って来たのか?
なぜ2回目の結婚相手がWebサイトを開設してくれたのか?
なぜ3回目の結婚相手が一緒に仕事をしてくれているのか?
なぜ妹がわたしの傍から離れないのか?

こんな恐ろしくて、傲慢で、プライドが高く、人を人として観ない(笑) 進化し過ぎた宇宙人のようなヘンテコリンで変わってるわたしに、なぜまわりの方々は関わるのか?

病院で暮らしている頃から、わたしの近くには常に人がたくさんいたが、何なのだろう?
嫌なら離れていくだろうに、、、

機会があれば、なぜわたしから去っていかないか?聴いてみよう。
いつも理由を言わず、はぐらかしてばかり。
いい加減に、わたしとなぜ関わるのかキチンと伝えて欲しい(笑)

わたしは病気を苦にしていない。むしろ病気になったことを冷静に受けとめ、どのようにすればじぶんが長生きできるか?を考えている。

わたしは、120歳まで生きたいと願ってきた。それが最近は【祈り】に代わった。
だから51歳までしぶとく(笑)生きてこれたのだ。

これからも、じぶんの考えに忠実に、じぶんの人生を真剣に考えて行動していく。

常に、まわりの存在全てに感謝の気持ちを忘れずに、じぶんの気持ちを正直に相手に伝える。
誠心誠意、真心を込めて関われば、いつか必ず判り合えると信じて生きていく。

今日ある命は当たり前ではない。
今日ある世界は空想じゃない。
今日の物質世界を慎重に冷静に客観視しながら、最大限のじぶんを表現する。

今日も目覚めたことに、今日も島道鉱泉のお風呂に自力で浸かれたことに、今日も妹夫婦と話ができたことに、島道鉱泉で暮らすMさんと挨拶できたことに、両親が食べたおじやの皿や鍋を自力で洗えたことに、、、ひとつひとつの小さな出来事に、じぶんの肉体がじぶんの思うように動けたことに感謝、感謝なのだ。

改めて 恵まれた環境を与えられていることに感謝せずにはいられないのだ。

キラキラはるみ


~お薦めサイト~

神を越えよ!仏を越えよ!『デス・トーク!』
https://shindara-channel.com/category/shinmaga-2/

『目指せ!正義の星!』 ~本当の愛と勇気と正義を求めて~
https://www.godbrain.com/gb/category/members_blog/mezase_seiginohoshi/